佳作 「海と生きる」ということ

大阪教育大学附属平野中学校 2年 福冨 史織

 二〇一一年三月十一日、十四時四十六分十八秒。地震により荒れ狂った海が巨大津波へと姿を変え東北の町を一瞬にして飲みこんでしまった。そう、東日本大震災である。多くの死者、行方不明者を今なお出し続けている。この当時の私はまだ四才で、東北と比べて被害の少なかった東京にいたためこの災害をあまり覚えていないが、それでも今まで感じたことがない振れの大きさに小さいながらも「恐怖」を感じたことは今でも鮮明に覚えている。そして、町を飲みこむ海の姿が毎日報道されていたこともうっすらとだが覚えている。
 しかし、今ではそんな海の姿や残酷に消えていく町の映像は毎日のように見ることはなく、見るとしたら震災があった三月十一日の新聞やテレビなどでしか見かけないようになってきた。人間の記憶というものは、時間が経つにつれてそのことの当事者であったり強い衝撃がないかぎり忘れてしまうものだから、無理もないことなのかもしれない。でも、だからといって忘れてもいいというわけでもないと私は思う。それは実際に被害を受けた、受けてない関係なしに。
 私はこの作文を書くにあたって東日本大震災による津波について二つの事を調べた。
 一つ目は、「津波による被害の大きさについて」だ。東日本大震災で大きな被害を生んだきっかけとなったのは他でもない巨大津波だ。各地を襲った津波の高さは、福島県相馬町で九.三メートル以上、岩手県宮古で八.五メートル以上、宮城県石巻市鮎川で七.六メートル以上を観測し、陸地の斜面を駆け上がった津波の高さは、国内観測史上最大となる四十.五メートルという数字から分かるように、いかに恐ろしいものだったかが分かる。そんな恐ろしい巨大津波による浸水があったのは全国で六県、六十四市区町村で、浸水範囲の合計面積は五百六十一㎢。このなかでも一番広い範囲で浸水したのは宮城県の三百二十七㎢で、これは仙台平野を中心とした低地が広範囲に浸水したことによるものだとされている。宮城県に続いて被害を受けた面積が広いのは福島県の百十二㎢。次に、岩手県の五十八㎢となっている。そんな広さの分だけの町や村やまたそこにいた人達や動物などが被害を受けたということを考えると津波による被害の大きさが計り知れないほど大きいものだということが分かった。
 では、そんな「大きな被害を受けた町や市は今どんな姿」になっているのだろうか。これが私の調べた事の二つ目だ。震災から九年経つ今、がれきや流れてきた土砂や車などで大変な状況だった町や村では災害公営住宅もほぼ完成、高台移動もほとんどが完了している。また、医療施設や学校施設の復旧も概ね完了しており、インフラ環境も整ってきている。今後は復興道路、復興支援道路および海岸対策の早期完成など、交通・物流網も整備していくという。課題はまだ残っているものの、九年という長い年月をかけて復興している。

 私達は海がないと生きていくことはできない。生命活動に絶対必要であるといっても過言ではない「水」も海があるからこそ得ることができている。また、海水浴のように海があるからこそ得れる楽しさももちろんある。しかし、そんな海は時に私達の命や築いてきた文化を無造作に奪う凶器となる。人からの攻撃なら対こうする方法は沢山あるかもしれない。しかし、大地震・津波という自然に対こうすることは私達にはできない。ただ一つ方法があるとするならば、「伝える」ということだ。巨大な津波によりたくさんの建物が流されつぶされ、そしてたくさんの人々が訳もなく命を奪われたという事実とそこにある悲しみや苦しみややるせない気持ちやつらい気持ち。そんなことを災害を体験していない人に伝える。なに気ないことかもしれないがこれが「津波」という海のもう一つのあってはならない姿に対こうするゆいいつの方法だと思う。
 私達は海に生かされている。と同時に、海から大切なものを奪われるかもしれない。ということをきちんと理解し、またそれを未来へ伝える。それが「海と生きる」ということだと私は考える。

2020年12月02日