佳作 塩づくりの歴史

高槻中学校 2年 村瀬 はる

 「この鯛の塩焼きめっちゃおいしい!」
わが家の焼き魚が美味しい理由は、新鮮な魚をつかっているからー ではなく、実は塩に秘密があるのです。この塩は、兵庫県立赤穂海浜公園内にある、「塩の国」という昔の塩づくりを再現している施設でつくられた塩です。私は今年塩の国に行って塩づくりの歴史を学びました。
 日本の塩づくりは、弥生時代から始まりました。古墳時代までは、最も原始的な「藻塩焼き」という方法でした。海藻を日に干し焼いてできる塩分を含んだ灰や、干して塩分のついた海藻に海水をかけて濃度約十九パーセントの濃い塩水「かん水」をつくり、これを土器で煮つめて塩をとるそうです。こんな昔に塩づくりが考え出されていたと知って驚きました。海水が濃度約三パーセントなので、何度も作業をくり返して大変だったんだろうと思います。
 中世には、「揚浜式塩田」を使った方法が出てきました。海水をくみあげて塩浜と呼ばれる砂を敷いた浜にまき、太陽の熱で水分を蒸発させます。このとき、毛細管現象により塩水が表面に上がってきて塩が砂の上のほうにできます。そして砂を集めて沼井という格子状のもので砂と塩に海水をかけたものを、海水と塩だけに洗い取りかん水をつくり煮つめます。この方法で塩をたくさんとれるようになりました。しかし、塩田は広かったので、砂を集めるのは腰にくると思いました。この時代から塩田のある景色があったと知ってすごいと思いました。塩の国に行った後、赤穂市立歴史博物館にも行って、いろいろな道具を見ました。塩づくりのためにたくさんの道具が発明されていたと知りました。塩づくりで海水を砂にまくというイメージは、揚浜式塩田からおそらく来ています。
 江戸時代には、日本独自の方法として約四百年盛んに行われた「入浜式塩田」が登場しました。入浜式塩田は、干潮と満潮の水位差が一から二メートルという地理的条件を利用して造られます。塩田に海水が入りこまないよう、大規模な防潮堤を築く必要がありました。揚浜式塩田との違いは、満潮になると自然に砂の方へ海水が流れこみ、その水量を調節することで砂の上のほうに塩のつぶをつくるところです。あとは揚浜式と似ていて沼井を使い砂を海水で洗いとってかん水を得ます。できたかん水は釜のある釜屋へ運ばれます。その近くには俵装された塩を納める塩納屋、煮つめるときに使う石炭を納める石炭納屋、塩田労働者がくらす浜小屋といった施設が建てられていました。多くの人が塩づくりに関わったんだと思いました。
 昭和二十年代後半から始まったのは、「流下式塩田」です。表面に粘土を張り、ゆるい傾斜をつけた盤の上に海水を流し、太陽の熱で水分を蒸発させます。それから枝を何本も束ねてつくられた二階建ての家くらいの長さのある枝条架を伝って流れ落ちる間にかん水ができるという仕組みです。私は、この流下式塩田でできたかん水を煮つめて塩を作る塩づくり体験をしました。スプーン一杯分の塩をつくるだけでニ十分以上かかりました。こんなに大変だったとは知りませんでした。塩づくりのとき、説明のおじいさんが、昔ながらの方法だと塩以外のうまみの成分(にがり)が混ざったままになるから美味しい塩ができると教えてくれました。
 昭和四十七年から続いている最新の方法は「イオン交換膜法」です。イオン交換膜法によりかん水をつくり、さらに真空式蒸発缶で煮つめて塩をとります。こんなに最近まで流下式塩田を使っていたと知りませんでした。イオン交換膜法からさらに新しく塩づくりは進化していくのだろうと思います。
 このように、塩づくりは早く大量につくるため、いろいろな方法が編み出されてきました。それぞれの製法で、たくさんの人の仕事になっていて、塩づくりは人の暮らしにとって重要なものになっています。今は「塩の国」などの観光にもなっています。塩づくりには、時代を反映するような技術が使われています。塩づくりは塩の結晶だけでなく知恵の結晶でもあったのです。

2019年12月01日