佳作 日本の船の歴史と関わり

近畿大学附属中学校 3年 瀧野 真一

 私は船の歴史が気になったので日本と船の関わりの歴史について調べました。
 始まりは先史時代だといわれていて丸木舟の発見例が日本でおおよそ二百例ほどあります。その中には東京都北区上中里の中里遺跡で発見された丸木舟や、千葉県香取郡多古町で発見された大型の丸木舟など、出土例もあります。また京都府舞鶴市の浦入遺跡で出土した丸木舟は、一本の巨木を刳り抜いた堅牢なモノコック構造の刳舟が主流であった。古墳時代以後の大型の刳舟は大阪湾周辺に多く出土例が出ています、それに単材刳舟ばかりではなく複材化した準構造船と呼べるものも出土しています。さらに準構造船は日本で幕末以後の洋式船舶の造船まで漁業や移動に用いられていた。次に飛鳥時代には平底ジャンク船のような箱型構造の船が遣隋使船として用いられました。室町時代の後期から江戸時代初期にかけて安宅船などが、軍船として用いられた。安宅船は千六百四年から千六百三十五年までの朱印貿易にも用いられていました。次に江戸時代初期の千六百三十五年には「大船建造禁止命」が施行され、船の七十五トン以上の建造が禁止されることになりました。ただし、これはすぐに商船は対象外になりました。さらに鎖国を行った為に、外航船を建造する必要が無くなった日本では軍船は関船が、商船は帆帆走専用に改良された弁才船が中心となりました。特に後者は江戸時代の近海海運を大いに発展させました。鎖国以前には徳川家康の命によってウィリアム・アダムスが建造した二隻の小型ガレオンや、慶長遣欧使節団のサン・ファン・バウティスタ号などの例があります。少し飛んで幕末のペリー来航から三ヵ月後の千八百五十三年九月に、大船建造禁止命が大名に対して解除されました。同時に幕府の手で浦賀造船所の建設が開始され、翌年には最初の西洋式軍艦の木造帆船「鳳凰丸」を竣工しました。水戸藩も千八百五十三年に江戸隅田川河口に石川島造船所の建設を始め、薩摩藩の桜島造船所や加賀藩の七尾造船所が次々と開設されました。千八百五十四年、ペリー来航の翌年に通商を求めて日本に来たロシアのディアナ号が下田で安政東海地震の津波により大破の後、嵐に遭い沈没、多くの船員が日本に取り残されました。当時、日本では外航に耐える船を持たず、これらのロシア船員は船を作らなければ帰れなかったため、君沢郡戸田村の日本人を指導して二本マストのスクーナー「ヘダ号」を作り上げた。その後、幕府は同型船多数の建造を命じ、君沢形と命名され、この西洋式造船を実地で指導されながら学んだ経験は、今日の日本造船業にとって近代船建造の礎となっています。それだけでなく千八百五十五年には幕府はオランダ人技師から大船建造と鋳砲製造の技術を習得することを目的に、「海軍伝習所」を長崎に開設した。幕府は千八百五十七年には長崎の飽の浦に溶鉄所の建設を開始し、千八百六十一年に長崎静鉄所(現在の三菱重工長崎造船所)として開所させました。千八百六十五年には横須賀・横浜製鉄所が着工され、その後、国内最大の横須賀海軍工廠となった。横須賀海軍工廠では、フランス人技師の指導を受けて木造船から鉄鋼船へ技術の切り替えが行われ、千八百九十年に最初の全鉄鋼軍艦「八重山」が完成した。江戸湾に設けられた石川島造船所はその後の石川島播磨重工の、浦賀造船所は浦賀重工業を経て住友重機械工業の礎となった。
 以下のように日本は船ととても大きく関わっていて、現在でも日本の貿易量の99.7%は船で行われています。ですから現在の日本に船はなくてはならないもので、なくなってしまった場合は生活できないという状況になることがあります。だから船は私たちの生活を支える「縁の下の力持ち」なのです。
 この作文を書いて、今の私達にとって船は大切なものだとわかり、もっと船やそれらのことについてもっと知りたいと思いました。

2019年12月01日