佳作 二月の海の温かさ

帝塚山中学校 1年 葛西 恭一郎

 今年の二月といえば、あと一か月で十二年間住んでいた浜松に別れを告げる、そんな月だ。
 それまでの海の思い出と言えば、小学二年生の時にグアムの海で、二百メートルほど離れた島に泳ぎに行ったこと。時間や場所は覚えていないが、波にさらわれそうになったことと、海水の塩味を舌で感じたこと。いずれの記憶もはっきりとはしていない。僕は小さいころから家の中で遊ぶことが好きで、出不精だった。海なんて家から遠く遠く離れた場所で、行ってもただ水と砂に触れるだけ、というイメージを持っていた。特別な理由がない限り、家族も僕を海に連れてゆくことなんてない。このままでははっきりとした海の思い出を残すことなく浜松を去ることになるのだが、そんなことは気にしていなかった。
 その日、珍しく僕は父とドライブをした。運転席にいた父から、浜に行かないかと誘われ、長らく行っていなかったから試しに行ってみるかという軽い気持ちで賛成した。少し楽しみでもあった。普段通ることのない道を行き、橋から青い海を見下ろした。海というものを改めて見てみると、きれいに澄んでおり、自分の気持ちも落ち着いてくる。父は自分がよくここへ来ていたことを、思い入れのありそうに話した。この辺りは昔から変わっていないのかもしれないと思った。
 浜に着いた。はしゃぐ人やサーファーなどはおらず、沿岸にボートが一、二艘見えるだけだった。空は薄暗く、暑くもない。一瞬物足りないと思ったが、温かさも感じた。最盛期の営業を終え暇となった人が、久々の来客をゆったりと迎えてくれるような、そんな感じだ。
 それから、僕が小さな子供のように遊んでも温かく見守っていてくれそうだ、と思ったので、思い切り走ってみた。波の音には自分の足音だけが混じり、一面に風紋のついた砂浜には足跡だけがついた。海と僕が一対一でいるような、さらにいえば一体感があった。波打ち際まで来ると、海水を含んだ砂がゴワゴワし、波が押し寄せてくるのを待ち遠しくさせる。大きな音とともに活きた波が自分の足に触れるのは気持ちが良い。砂を丸めて固めると、最近は泥団子も作っていないと思い返す。手についた砂は、活きた波が洗い流してくれるのだ。横を見てみると、海岸線がしばらく続いている。それに解放感を感じ、右や左に動いてみる。その間にも、波は何度も押し寄せてくる。増えた足跡もいずれは波と風によって消えるのだろう。
 父が僕と海の写真を撮った後、僕は海岸を背にして来た方向へ戻った。それまで海に親近感を湧かせていたので僕は少し寂しかったが、海は特にいうことはない、という感じで波を動かし続けるだけだった。それに背中を押されるようにして僕は戻って車に乗った。砂のついた靴を見て僕が再び海に親近感を湧かしていながら、車は自宅へ向かった。疲れているかどうかなども気にはならなかった。車の中で父は僕に、残り少ない浜松での思い出や、思い出すだけでリラックスできるような場所を作ってほしいという思いを語った。確かに、この二月というタイミングに父とドライブをしたことや、浜を見て色々な思いを巡らせられたのは貴重な体験だったと思う。無邪気に走っていたとき突如父の目に映る自分が気になった。父はそのとき三、四歳の頃の僕を思い出していたそうだ。僕は普段幼く見られるのを嫌がっていたのだが、今回は想定内であり扱いが幼くされているわけではないので、特に嫌とは思わなかった。
 今回の体験では、自然に溶け込む自分を客観的に見て、自分と海などの自然が以前より近い存在となった。三月末、海に面していない奈良県へ拠点を移してからも、海の話となれば記憶に新しい今回のことを思い出す。思い出し、音や景色を頭に蘇らせ、父の話したように心をリラックスさせる。また今回の体験で、今まで住んでいた浜松に対しても、あまり知らないエリアに足を踏み入れられたことに充実感があった。二月の海にあった温かさを、僕は心の中に留めておきたい。

2019年12月01日